02/12/3
三 十 三 間 堂
紅葉狩りには遅い12月3日、友人と連れ立って京都を訪れました。混雑を避けて見ごろを外すか、混雑は覚悟で
真っ盛りの紅葉を観るか、いつも二者択一を迫られると私は人の少ない方を選びたくなりますが
この景色がすべて紅葉のなかで観られたらやっぱり素晴らしいと思い、それを頭のなかで想像しながら歩きました。
友人のひとりは今年の秋はこれで二度目の京都訪問となります。
京都通の彼女の後について私たちは、どっぷりと日帰り京都を楽しみました。彼女の立てたプランは、
三十三間堂→智積院→東福寺→泉涌寺でした。
三十三間堂 (国宝)
私が奈良の戒壇院で出遭い、その眼にショックを受けた広目天を含む四天王の像は中尊の四方に位置していましたが、やや後方であまりはっきりその姿を確認することは出来ませんでした。戒壇院の四天王と同じく脱乾湿のように見えましたがはっきりとは見てとれませんでした。そしてそのうち一体は修復中でもあるのか、安置してあるのは三体のみでした。
京都国立博物館前 欅はもうすっかり葉を落としている
いつ来てもここは修学旅行生や観光客で人があふれていますが、この日は思わず、ああうれしいと言いたくなるような静かさで、ゆっくりと、実にゆっくりとお堂の中を拝観することが出来ました。なんだかとてもありがたい気持ちに襲われて、神仏には無縁の私が、おろうそくに灯をともして手を合わせるのでした。
1000体の仏像の中には、見知っている人、あるいは自分によく似た顔が一つはあると言われていますが、そこまではわかりませんでしたが、中尊の向かって右のあたりに置かれた一体は三人が思わず口を揃えて、うわあ・・と言った程、実に柔らかい微笑みを浮かべたいい仏様がおいででした。作者は中尊と同じ湛渓でした。
最前列にはすべて国宝の像、風神、雷神をはじめ、二十八部衆といわれる諸尊がずらりとならんでいます。これらは外敵から仏を護り、人々を護るといわれていますが、国宝でもあり、尊像として仏教の思想を表し、芸術的にも優れた作品であることには違いないでしょうが眉をを吊り上げ、口をぐぁっとあけている姿は矢張りあまり親しみがもてないのは致し方の無いことのようです。
その中で、思わず三人が声をあげたのが、婆藪仙人像!。婆と言う字が見えたのでお婆さんかと思いました(単純!)が違いました。ほかの像に比べてあまりにリアルなその老躯は一瞬仏像のたぐいであることを忘れさせ、やがて近づいてくるわが身の老いに置き換え、身につまされる思いがしました。上半身は裸であばら骨が浮き出て、杖をつき、よれよれの腰布をまとった姿は、貧困に虐げられた惨めさを表しているのかと思いましたが、そうではなく、こういう人こそどこかにいそうな、自分を譲らなさそうな老人、ウン、矢張り眼が並ではありませんでした。仙人ですもの。
拝 観 券
普通は20分と言う参観コースを私たちはたっぷり1時間かけて拝観しました。
そろそろ腹は北山、博物館前のホテルで腹ごしらえです。朝が早かったのでおなかは充分空いていました。
サラダバー | ランチ | パークホテルのロビー |
智 積 院
智積院を訪れた目的は、国宝の障壁画、を観たいからでした。でも行って見ると、その寺社境内の壮大なこと。もとは真言宗智山派の総本山といわれるだけはあります。戦国時代の最盛期には所領70万石といわれましたが、豊臣秀吉に刃向って一山ことごとく焼き払われ滅びてしまいます。
後に秀吉亡き後徳川家康が大阪城が落ちるとともに寄進しましたが、それからも何度も火災にあい昭和48年の弘法大師生誕1200年の記念事業として建立を計画、昭和50年に現在の風格ある堂宇が建立されました。
真っ赤な南天の実が水面に映える
等伯の襖絵にあったとろろ葵が蕾をつけていた
長谷川等伯一派の障壁画はあたらしい建物に集められていました。ここに現存する絵は
楓図、松に秋草図、松に黄蜀葵図、雪松図、松に立葵図、などです。
長谷川等伯の襖絵は、彼がはじめは狩野派でありながらやがて袂を分かつたと言うのも
なるほどとうなずける力強い絵でした。琳派に似て琳派にあらず。
利休好みの庭園といわれます。 すがれた紅葉もアジ!があるとは私の負け惜しみ?
花の季節は又一段と美しいことでしょう。
東福寺 |