98/12/9

 ここを訪れたのは1998年12月もう今からまるっと6年も前になる。NHKの放送で紹介されてから、人気は急上昇、連日大勢の人が訪れている。私たちは暮れの12月。紅葉はもう遅いわねといいながら行った時は12月初旬。まだ残りの紅葉を見ることが出来たのは幸いでした。師走とあって、訪れる人もまばらで、のんびりゆったり、静かに観賞することが出来ました。
 山崎といえば今でこそ、ああ、と頷くサントリ-のウイスキー工場などを思い出しますが、この美術館は、アサヒビールの経営になっている。

 ここは大正時代の実業家、加賀正太郎が自分の山荘として渡英時代の経験を元に自ら設計したものと聞く。それが確か彼の20代後半とか。私たちはその若さと才能にも、経済力にも驚く。

 平成に入り、天王山麓の開発が計画され、周囲の環境破壊を懸念した地元住民や京都府の要望から、アサヒビールが、美術館として活用をすることになった。設計建築は安藤忠雄氏が関わり、地中の宝石箱と呼ばれている地下の美術館にはモネの睡蓮の絵がずらりと飾られています。それにしてもモネは睡蓮の絵をどれだけ描いたのかと思うほど、コンクリート打ちっぱなしの壁面は睡蓮の絵ばかり。 それを聞いたモネ大好きの私の別の友人はこの後ここへ駆けつけている。
所々まだ鮮やかな紅葉が残っていて私たちを喜ばせてくれる。 左は山荘の入り口の門構え。
 カーテンはイギリスの、ウイリアム・モリスのものを使用している。始め安藤氏はあまりウイリアム・モリスは好きではなかったがつけて見るとぴったりと合ったのですと語っていた。これ以後、私はウイリアム・モリスのパターンを使ったブラウスなど方々で見かけるようになった。カーテンはいいけれど、ブラウスはどうも。日本のアパレルメーカーの商魂のたくましさといえるかな。
館内には河合寛次郎バーナード・リーチ浜田庄司、等の作品が、展示されている 外観は元より家具調度品に至るまでできるだけ手を加えず元のまま
ベ ラ ン ダ か ら。 地中の宝石箱といわれるモネの美術館へ降りていく
広大な敷地内のには、四季おりおりの花がそれぞれの季節に美しさを競う これは山荘へ行く途中のトンネル。山崎山荘と書いてある。ここを出てぐるっと左へ迂回して上がっていく近道を教えてもらってついたところが宝積寺
宝積寺 この寺の歴史はかなり古い。
けれど、なんと言っても私たちの耳に新しいのは秀吉の中国大返し。
光秀の謀反を聞き、高松城を攻めていた秀吉が、200キロの道のりを僅か五日でとってかえし光秀を討ったのはあまりにも有名な話。ここにはそのとき秀吉が腰をおろした『秀吉出世石』と言うのがある。

 そしてまた、
蛤御門の戦いで敗れた尊皇攘夷の志士17人が、ここで自刃したという。その霊を弔う碑も見つけたような記憶があります。
地元の人々には、歴史あるありがたい寺(ご神体は打ち出の小槌)かもしれませんが、私はなにやら血の匂いを嗅いだようなあまりいい気持ちのしない寺でした。すくなくとも、『・・・つわものどもが夢のあと』という気はしなかった。



一夜の塔
 これが秀吉が山崎の合戦で命を落とした兵士の霊を弔うため又は礼の意味をこめて一晩で建てたという伝説から、一夜の塔とよばれている。桃山時代の特色を生かした美しい姿の塔です。

 一夜と言えば、秀吉は
墨俣城も一夜で建て、これも一夜城とよばれているけれど、アレは城というより砦に近い簡単なものであったらしい。尤も、今は観光の目玉として立派な城の景観を呈しているとか。
 この頃から秀吉がだんだん名をあげて行き、山崎の合戦で、信長の後継者として天下人として歩みだしていったのでしょう。この山崎の合戦から、勝敗の分かれ目を『天王山』と言うようになったとか。

 ここ山崎は古代から物流の要の地として栄え、中世には、えごま(紫蘇の油)を広く商い繁栄する。幾多の戦乱も経験する。
 町の資料館には、古代の遺跡から出土した土器などが展示してあり、又駅の近くの線路脇では今も発掘しているところを目にしました。 また、利休作の茶室、
待庵 もここにありますが、普通の民家にあるようで、観るには予約が必要でした。私たちは資料館で復元した茶室を観る事が出来ましたが、矢張り本物の重みは感じ取れませんでした。
 

            復元された待庵
  モネの『睡蓮 Courtesy of MarkHarden's Artchive.    この作品は大山崎山荘美術館にはありません。

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