二月堂から戒壇院へ
二月堂・・毎年、修ニ会(お水取り)の行われるあの二月堂です。 降りかかる火の粉を防ぐには木綿の風呂敷が一番とか。 燃え残った灰は厄除けに拾って大切に持って帰る人が多いそうです。 |
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二月堂から戒壇院へいくみちです。とても静かで(オフシーズンのせいでしょう) 古びて崩れかけた土塀が却って味がありますね。 白豪寺も九月に訪れると土塀と石段と萩の花の取り合わせがなんともいえません。 |
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此処は東大寺の塔中の中に或る家。 生垣が素敵。 |
戒壇院・・・同行した友人の一人がどうしても戒壇院へ行きたいと言いますので私達は二月堂への往路とは反対側の道をとってだらだら坂を下りながらむかいました。
彼女が始めて戒壇院を訪れたのは、まだ二十歳の頃でした。
お堂の周りは草茫々で中は真っ暗、まるで放置するように置かれてあった四天王を、美大生らしい青年が、懐中電灯で照らして熱心に見入っていたそうです。
友人も一緒に覗き込むようにして観たその像には蜘蛛の巣がかかっていたとか。
まだ、戦後の荒廃から立ち直っては居ない時代で文化財の保護にまで行政の手の及ばない時代でした。隔世の感があります。
戒壇院とは天皇をはじめ僧侶となる者への戒を授ける重要な儀式を執り行う場所のことです。
鑑真が六度目の渡航で日本に渡り、754年に築かせたもので、多くの仏教支持者に授戒を施しました。
度重なる戦乱で焼失し、現在の戒壇院は江戸時代に再建されたものです。・・・
今回いろいろ書いていて、普通、仏像といっているものにもいろいろある事を知り私なりに調べてみました。
私たちが仏像といっているものには大きく分類すると4種類にわかれます。
如来・・・・・釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来など。(私の生年月日の守り本尊は大日如来といわれました。が、それが何を意味するのかもワカリマセン)
菩薩・・・・・「〜観音」と呼ばれるものが「〜観音菩薩」といって一般的には女性的な姿をした立像のものが多く、中には坐像のものもあります。
明王・・・・・よくお不動さんといわれているのが一番わかりやすいでしょうか。不動明王です。
天部・・・・天部で一般に馴染みのあるのは大黒天や弁財天など。これらは七福神としておなじみですが「神」という名がつきます。元来はインドのヒンドゥ教やバラモン教の神々がもととなっています。後に仏教に帰依しますがその地位は仏教の守護、ガードマンのような役割でした。そのため、天と名のつく像には武具を身に着け武器を手にするものが多いのです。
四天王・・・須弥山と呼ばれる仏様の世界の四方を護っています。
時国天は東方を守り手には剣を持ち、増長天は南方を守り手には戟と矛を持っています。
広目天は西方を守り手には筆と巻子を持っています。多聞天は北方を守り右手に宝塔を乗せ左手に棒をもっています。
上に揚げた広目天と多聞天は他の二体と違い、武器らしいものを持っていないところが平和でいいです。
でも、広目天のように、筆と巻子(ノート?)を持ってるのも珍しいめずらしいと思います。
一体何の役目をするのかな?現代の入国管理、イミグレーションかな?(私の勝手な想像です。)
後日、TYで映し出された広目天の横から撮った目は、彼の切れ長の目の特徴だけをぐいと掴み出して見せてくれました。
でも、鋭い目で、こういう目で観られるのは、叶わないな、という気がしました。
それにしても、天平の昔、この像を制作した仏師は凄い。
けれど、今も、製作当時のままの彩色が鮮やかに残っていたらその色彩に気を取られて表情の細やかさまで見る余裕は私には無かったかもしれません。
この四天王像の質感(木でも石でもなさそうな柔らかい線)、
一体材質は何なんだろうと・・・
これは脱活乾湿像といって大量の漆と粘土等を使ったもので、(当時でも漆は大層高価なものでしたし、その手間と費用はかなりのものでした。)でもそれであの質感と自然な体の線を出す事ができたのだということです。
博物館の館の阿修羅の像をゆっくり見るためにも奈良へは再度行って見たいと思っています。
京都の賑わいとはちがう落ち着きと、特に冬の奈良は観光客も少なく寺々の本来の姿が感じ取れる時ではないでしょうか。
私は冬の奈良が特に好きなのです。
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