永観堂 禅林寺 |
永観堂 禅林寺 |
もみじの永観堂として親しまれているこの寺は正確には『浄土宗西山禅林寺派 総本山禅林寺』。もとは、前日おとずれた東寺と偶然同じ真言密教の寺でした。 863年、弘法大師の高弟、真紹僧都が、清和天皇から寺院建立の許可をもらい禅林寺の名を賜ったのです。200年程後、永観律師の時代に恵まれない人々のために力をつくしたことからいつの間にか師を慕う人々によって永観堂と呼ばれるようになりました。
弘法大師は、真言密教なのに何故いつの間に、浄土宗になったのか・・・?ギモンが湧いた。
以下はパンフレットからのコピーです。
|
鎌倉時代に住職となった静遍僧都は、高名な真言宗の僧侶でした。お念仏を唱えるだけで救われるという教えに反発をおぼえ、自分のほうが正しいと証明しようと、法然上人の著書を開きました。ところがいくら読んでも 「間違っているのは自分では」 と思わせられることばかりでした。ついに静遍はお念仏の教えに深く帰依します。そして法然上人の愛弟子、証空上人を次の住職として招きました。
証空上人はすべてを阿弥陀仏にまかせきって唱えるお念仏の大切さを説き「白木の念仏」と名づけて人々に勧めました。 (中略)
のちに禅林寺は、法然上人を宗祖に、証空上人を派祖にいただく、浄土宗西山禅林寺派の総本山となりました。
永観堂 禅林寺は、はるか平安の昔から、称名念仏の根本道場として、阿弥陀さまの慈悲の心を伝えています。
|
|
これで私のギモンも氷解。 けれど、真言宗より、浄土宗のほうがいい!と途中で鞍替えしてしまって、真言密教の面子はどうなるの?なにやらヒミツめいた、密教より、南無阿弥陀仏と唱えるだけで、極楽浄土へいけると民衆に説いた、法然上人や、その弟子、のちの親鸞上人、二人ついては、 学生時代に、吉川英治作 『親鸞』 を読んだことがある。小説なので、断定することはできないけれど、史実には基づいていると思う。
法然上人は、当時、僧侶の妻帯は許されていなかったのに(内々に妻帯している僧はたくさんいたらしい)弟子の親鸞の恋を認め、妻帯を許したとか。子供心に、エライお坊さんだなあ! と、その部分だけが印象強く記憶に残っている。 中学時代、国語の先生はお寺の出でした。親鸞の『嘆異抄』(弟子が書いたといわれるが)についての講義は、全くの馬耳東風だったけれど・・・。
こんなことを思い出しながら歩く永観堂は、それとは知らずに訪れた寺ではあったけれど、何か親しみ深い寺になリました。 惜しむらくは、季節が秋であったら、もっとよかったのに。 なんたって 「もみじの永観堂」 というくらいだから・・・。 |
|
|
|
|
参道 紅葉の季節にはさぞ綺麗なことでしょう |
|
唐 門 (勅使門) |
|
本堂の開け放たれた窓から鐘楼。僅かに百日紅の紅が色を添える |
|
太い幹は三鈷の松。葉が長く三本しかない。エンギがよいそうだが、拾ってはいけないと書いてあった。 回廊の上から |
|
|
|
紅葉の写真が貼られている |
放 生 池 |
若い人が、思い思いにデジカメでパチパチ |
|
多 宝 塔 |
永観堂について語るとき、この阿弥陀さまを語らずして終わることはできない。
『みかえり阿弥陀』 と、親しまれているほとけさまである。
伝説がある。 永観が50才のころ寒いお堂で念仏し行道をしていると突然須弥壇に安置してあった阿弥陀像が下りていらして永観を先導して行道をはじめられた。永観の驚きは言うまでもない。 このとき、阿弥陀は左肩越しに振り返り
「永観おそし」 と声をかけられた。
これ以来、永観はその尊いお姿を後世に伝えたいと阿弥陀様に願われ、
阿弥陀如来像は今もその寛容を伝えるといわれている・・・。
私のひとりごと・・・ 阿弥陀さまって男性とばかり思い込んでいたけれど、このお立姿はどう見ても、女性的に見えて仕方がない。 ハテ??
私のそばで「○○ちゃんにそっくりや〜」といってる人の声が聞こえた。
左のお写真は↓辛お借りしました。
http://www.eikando.or.jp/mikaeriamida.htm |
|
|
南 禅 寺 |
|
南禅寺 本堂 (画像は京都新聞社提供) |
臨済宗南禅寺派の大本山で、正式には瑞龍山太平興国南禅禅寺という。禅宗では最高の寺格であるとか。小堀遠州の方丈前の庭園や、巨大な山門は特に知るところ。 何度も来ているけれど、水路閣を改めて見たくてやってきた。 |
|
|
|
|
やはり水路閣の辺りにはいつきても、画架をたてて絵を書いている人がいる。それほど絵になる所でもある。水源まで行ってみたかったけど、遠く足元も悪くて諦める |
|
|
山門に上がってみる。 「絶景かな!」というほどの事はない。昔は京都タワーも、今のような京都駅もなかったもんね。 |
|
京都文化博物館
この建物は明治38年(1906)日本銀行京都支店として竣工。辰野式建築として知られる、辰野金吾とそのお弟子さんたちによって造られたレンガ造りの古風なビルである。昭和44年(1968)に重要文化財に指定され、現在は博物館となり各種行事用としてして使用されている裏に回ると、レストランやみやげ物街。階上は美術館や、京都の歴史を紹介する資料館になっている。
|
外観 |
銀行の面影を残す内部 |
格子がそれぞれの地方の特色を表している |
|
|
|
京 都 駅 |
私は京都駅が好きである。古都京都のイメージを裏切って作られた斬新さ。エスカレーターを上へ上へと上っていくとき、振り返って下を見る。そこに見える人々の雑踏。大勢の人が無意識に見せてくれるいろんなポーズ・・・日常的なポーズ。非日常のポーズ。いつまでも見ていたい気がする。
|
|
|
|
|
小学生の男の子三人のシルエット |
|
|
|
|
|
駅の北側(京都タワーがみえる) |
駅の南側 |
|
|
|